日本が誇る浮世絵は、19世紀後半、遠く離れたフランスでゴッホや印象派の画家たちに大きな影響を与えました。
ゴッホは、3点の浮世絵を模写しているほどです。日本人として、とても誇りに思います。
でも、ちょっと待ってください。日本に生まれ育った私たちですが、浮世絵と錦絵の違いをわかっているでしょうか。
ここでは、錦絵について、浮世絵との違い、歴史、有名作品などについてコンパクトにまとめました。
- 錦絵は、さまざまな色を使って精巧に作られた木版画
- 葛飾北斎や東洲斎写楽、歌川広重が錦絵の作者として有名
目次
1.錦絵とは?浮世絵との違いについてわかりやすく紹介
さまざまな色を使って精巧に作られた木版画を「錦絵」と呼びます。その技術は18世紀中頃に確立されました。鮮やかな色彩が人気を呼び、現在では美術品として高く評価されています。
「写楽の役者絵や、歌川広重の東海道五十三次のカラフルな絵を浮世絵と思っていないでしょうか?」
浮世絵とは、江戸時代から明治にかけて風俗を描いた木版画です。(肉筆浮世絵という、直接、絵師が紙に書いた一点ものの作品もあります。「見返り美人」がそれです。)
錦絵が出るまでは、浮世絵というのは、墨一色で摺られた墨摺絵(すみずりえ)でした。その後、紅色などを加えた紅摺絵(べにずりえ)も売り出されます。
それらに対して、錦絵とは、多色摺りの浮世絵版画のことを言います。
つまり、錦絵というのは、浮世絵の1ジャンルです。錦絵は、その美しさゆえに大流行します。浮世絵の絶頂期を迎えます。
最初の質問の答えは、写楽の役者絵も広重の東海道五十三次も、浮世絵であり、錦絵の代表作と言えます。
2.錦絵の発祥とその歴史とは?
江戸時代中期、裕福な俳諧人の間で、絵暦(えごよみ)という絵入りの暦が流行しました。
当時は陰暦で、月には大小がありました。それを示すために判じ物風に趣向を凝らしたものを仲間内で交換し合いました。
よりぜいたくで華美なものを求めたため、飛躍的に多色摺の技術が向上しました。
絵暦の流行が終わった後も、版元が「東錦絵」または「吾妻錦絵」として売り出すと、その美しさゆえに人気が沸騰しました。
錦絵は、奉書紙を使い、顔料に胡粉を入れ、中間色など微妙な色調も表現できるようなになり、版木も上質な桜や朴が使われるなど、おおいに工夫されます。
こうして始まった錦絵は、版元、絵師、彫師、摺師の分業によって、うまく機能します。このシステムを確立し、錦絵を大成させたのが、鈴木春信です。
鈴木春信は、その後急死しますが、さまざまなジャンルで一世を風靡する絵師が登場します。代表的な絵師には、美人画の喜多川歌麿、役者絵の東洲斎写楽、風景画の葛飾北斎、歌川広重などがいます。
明治に入っても、新聞錦絵、モノトーンの光線画、日清・日露戦争の報道画としての戦争絵、相撲絵、能楽絵、千社札などとして続いていきます。
ですが、大正年間に起こった関東大震災で多くの版元が全滅し、それによって錦絵も終焉を迎えることになりました。
3.日本の有名な錦絵を描く絵師とは?
鈴木春信:鶴上の遊女
(錦絵を大成させたといわれる鈴木春信は、美人画で有名でした。その後の絵師に多大な影響を与えています。)
東洲斎写楽:三世大谷鬼次の奴江戸兵衛
東洲斎写楽の名前や「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛 」というタイトルを知らない人でも、この錦絵は見たことがある方が多いでしょう。
写楽は、約10か月という短い期間に役者絵などを描いてその後忽然と姿を消しています。彼の生涯は謎に包まれています。
喜多川歌麿:ビードロを吹く娘
歌麿風美人画で一世を風靡した浮世絵師
歌川広重:東海道五十三次
広重の作品は、大胆な構図とともに、藍色の美しさで、ヨーロッパ、アメリカで高く評価されています。
葛飾北斎:富嶽三十六景
富士山をさまざまな地域、角度から描いた葛飾北斎72歳の時の最高傑作
最後に
世界中の画家、芸術家を熱狂させた浮世絵、その中でも特に錦絵についてまとめました。改めて、錦絵の代表作をまとめてみますと、誰もが一度は見たことがあるものばかりです。
錦絵は広い地域で親しまれてきましたが、工芸品や美術品としての価値も高いのです。
流行を先取りした版元の企画力、見る者を驚かせる絵師の画力だけでなく、髪の毛の一本一本まで彫り込む木彫職人の技術、同じグラデーションを何百枚、何千枚と刷る印刷職人の器用さなど、経験によって生み出された絵としての豊かな魅力があります。
多くの錦絵が、外国に流れてしまいましたが、里帰りの展覧会も開かれます。間近に、錦絵の美しさ、迫力を見てみたいものです。