
黒田官兵衛について知りたいと思っていませんでしょうか。
秀吉の天下取りにも貢献した黒田官兵衛には、たくさんの逸話があります。
今回の記事では、そんな黒田官兵衛の面白い話を紹介します。
秀吉の天下取りに貢献した黒田官兵衛とは?
<黒田官兵衛>秀吉の天下統一事業に軍師として貢献し続けた官兵衛は、九州征伐の後は豊前(大分県)に領地を与えられ、家督を嫡男の長政に譲り隠居。名を如水と改めた。しかしこの後も秀吉に頼られ、戦に参戦している。 pic.twitter.com/QHNYjSrFbT
— 日本刀♥LOVE (@nihonnoto2) August 18, 2019
黒田官兵衛の概要
黒田官兵衛は、羽柴秀吉の参謀として天下統一に貢献した人です。
簡単に黒田官兵衛の紹介をすると、1578年に荒木村重が信長に背いた際、説得に赴くも失敗してしまいます。
そして、幽閉されてしまい左足が不自由となってしまいました。
秀吉の九州征伐後の1587年には、豊前6郡を与えられたが、関ヶ原の合戦では、子供の黒田長政と共に東軍に加わり、筑前一国を領したのです。
また、熱心なキリスト教で洗礼名をドン・シメオンと称しています。
黒田官兵衛のかんたん歴史
黒田官兵衛は、竹中半兵衛と共に秀吉配下についており、二兵衛と呼ばれていました。
天才軍師として名も馳せており、この二人がいなければ秀吉の天下統一は成しえなかったかもしれません。
黒田官兵衛は1546年に生を受けました。父は播磨御着城主・小寺政職に仕えた小寺職隆です。
職隆は、重用されて、姫路城の城代となり、「小寺」はその君主から与えられた姓です。
官兵衛は父親から22歳という若さで家督を譲られることになりました。
1575年に織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で破ると、主君・政職は帰属の選択を迫られました。
小寺氏が割拠する播州地方は、織田氏、毛利氏、三好氏という強大な勢力に囲まれており、政職はこれらのどの勢力に属するのが生き残る道なのかを考え、意見を求めたところ官兵衛が迷いなく言い放ったそうです。
「世の流れを見れば、織田につくべきと、考えまする」
この頃からすでに官兵衛の才能の片鱗を見ることができます。
最後に
いかがでしたでしょうか。
簡単にはなりますが、黒田官兵衛の紹介をいたしました。ぜひ参考にしてください。